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今になってわかること

最近、昔読んだことがある本を読み返した。「上杉鷹山」という本である。単行本では2冊の量で、私が就職したときに先輩から頂いた本だ。「なぜこの本なの?」と当時は思いながら、とりあえず読んでいた。簡単にあらすじを言うと、米沢藩の財政を立て直すため、前例にとらわれない改革を推し進め、頭の固い重臣たちとどのように向き合って、改革を進めるかという内容である。士農工商という身分制度がある当時としては、誰もが考えなかった、民主主義的な政策を推し進め、領民に対する「愛」が最も足りていなかったのだと説いた内容になっている。「愛」を取り入れた政策で借金まみれの米沢藩を財政が潤うまでに立て直した上杉鷹山。これは現在社会に置き換えると、上司と部下の関係にあたり、参考になる点が大いにある。この本を読んで、当時先輩が私にこの本を渡したことの意味が理解できた。それからは2度3度と読んでいる。今では読む都度、自身の捉え方に変化があると感じながら読むのが楽しみとなっている。

つい最近、また読み返したのだが、数年前に読んだときと私の受け止め方に明らかな違いを感じる。それだけ多感な毎日を過ごし、充実しているということかもしれないが、間違いなく言えるのは、自分は前に向いて進めているということだと思う。本当は本をくれた先輩に、「おかげ様で私はここまで成長しましたよ」と逢いに行きたいが、今となっては連絡先もわからない。心の中で「ありがとう」と言うしかない。

自身の周りにいる人は、本当に貴重な存在の人ばかりだと思う。日常生活の中では気づきにくいことではあるが、そういう気持ちを忘れずに、これからも人生の気づきを感じながら時間を重ねていきたい。

夢を見ていた時間

いないと思いますが、このブログを見て頂いていた皆様、ご無沙汰しています。1年以上、記事を書いていませんよーとメールがきたりしていましたが、あまりに時間があきすぎて、アクセスするのも少し気が引けていました。でも引きこもりはよくないということで、久々に投稿してみました。

今まで何をしていたの?と問われるとどうだろうか。暇な時間を過ごしていたのではなく、変化ある毎日を送っていた、というのが答えでしょうか。いいこともあったし、悪いこともあった。なので、「夢を見ていました」というのが正しい答えなのかもしれない。

ブログの最初の記事で、部屋では飲まない!と宣言していた私ですが、今では普通に飲んでしまっています。意思が弱いんだなと感じます。過去を振り返って今の考えを持ったりすることは大切なことなんだと感じます。

あまりに久しぶりすぎて、考えがまとまらない私ですが、また投稿しますので見て頂ければと思います。

人生の節目を感じる

桜の咲くこの季節、世間では別れと出会いの季節。桜は別れの花ではなく、出会いの花であるが、ここ最近は3月に開花するという慣例で、出会いの花とは認識されにくくなっているのかも。そんな今、桜は別れと出会いを中継ぎする役割を担う花に変わってきているように感じる。

こんな季節、特に感じるのは人生の節目を感じることが少しずつ薄らいでいる気がするということ。学生の頃は、卒業式や入学式などで人生の節目を感じる機会があるが、社会人になってからそうそう機会はない。人生の節目を感じることができないのは、ある意味寂しいし、自分のモチベーションを低下させてしまっている原因になっているかも。

以前、出会いについて書いたことがある。出会いは大切な節目なんだと改めて感じている。別れも同じ、大切な節目。私は人生の中で、出会いと別れを繰り返している。もう会えなくなった人の節目であっても、その人の節目を感じ、幸せを祈るだけで自分も幸せになれるような気がする。ひょっとしたら節目は出会いや別れに限らず、一日一日だと感じなくてはならないのかも知れない。そんなことに気づかせてくれる人は私の周りにどれくらいいるのだろう。そんな人が近くいれば幸せだろうな。でも、もう社会人だし他人に頼らず、毎日を節目だと感じることができるよう、自身で一日一日を大切にしなくてはいけないのだと思う。節目も幸せと同じ、自分ではなかなか見つけにくいものなのかも知れない。

仲間意識から人を育てる

今日から個人的には大型連休。特に予定はなく、どのように過ごすかなにも考えていない。仕事の期限が迫る中、本当のところは忘れられないが、少し仕事のことを忘れて、こんな日があってもいいかと気楽に考えブログを書いている。

 

私はこれまでたくさんの人に助けられてきたと感じている。これまでだけではなく、今も助けられていろいろなことを乗り越えてきている。その助けてくれた一番身近な人というのは、会社の仲間かも知れない。悲しいことではあるが、仕事中心の生活、仕事で苦労することが多いこともあり、会社の仲間に対する感謝の気持ちが大きくなってしまうのかも知れない。仲間というのはどこの会社でも言えることかも知れないが、非常に認識が薄い。私はいつも仲間意識は非常に大切と職場で言うのであるが、それでも「意見をぶつけ合う」という領域を超えて、互いに心を傷つけ合うような行動を目にするときもある。特に情けないと思っているのは、相手のミスを攻撃すること。人間のやっていることだから、判断を誤ったり、単純なミスはつきもの。それにいちいち反応し、相手のミスを追求し、口いっぱいの言葉を浴びせる。さらに残念なことは、そのような行動に出るのは比較的、年配者や以前同じ仕事に就いていた人、つまり先輩に多く見られるということ。まるで「俺は知っているのだ」ということを威張りたいのだろうか。

 

仲間意識で接するのならば、まずは自分の口いっぱい発言を止めて、相手の話をしっかり聞くべき。そして相手の思いや考え、おかれている状況を把握した上で、どうすれば同じ失敗をしないようになるのか一緒に悩むべきなのではないか。それが仲間意識であり、人を育てるということなのではないだろうか。もちろん社会の集まりなので、いろんな人がいて当たり前。しかし先輩として備わっていなければならないのは、「人を育てることができる」ということ。この要件を満たさない先輩は、大きな欠陥があると私は思う。そういう私もいつ仲間意識を失うかもわからない。もう一人の自分に「仲間意識は大切だよ」と常にささやいてもらうようにしなくては。

素敵に生きる

忙しい毎日が続く中でも、最近は幸せをかみしめながら過ごすことができている。

それは仕事が充実しているから、そして私生活も充実しているから。

そして人生の中の気づきを得たとき、こんなことがあったんだと、まだまだ自分の

未熟さを感じるときもあるが、同時に人って最終的には完成するものではないんだろう

なーとも感じる。

そんなことを感じながら毎日を生きていくことが、新しい出会いがまだまだ沢山あって

素敵な日々を過ごせる、そして素敵に生きることになるのかと思う。

明日はどんな素敵ことがあるのかと、期待する日々を送りたい。

理想と現実

今日は関西へ出張で、人前で喋るお仕事に。

私は持論を展開するのはあまり得意でなく、まわりのみんなと話しながら、講義をしていると言うより、自然な形でみんなと輪になって話すのが好き。

しかし、今回の相手はまだ入社したての経験が全くない人ばかり。最近、こんな人たちの前で話す機会を何度か与えて貰っているが、経験がない人に対して、どのような話をし伝えていけばよいのかを悩んでしまう。彼らは夢に満ち、言い換えるなら理想を追求しているなか、いや現実はこうだよーと少し水を差すことも必要なのかと考え、今回は理想に対して現実を展開してみた。

そうしたら、こんな質問が。

理想と現実が違ったら、どうしたらいいですか?

簡単なようで非常に難しい質問。仕方ないよね・・・では済まされない。少し悩んで、なぜそうなるのかを深く考えて、わからなかったら信頼できる人に相談することだよ。だから身近に信頼できる人を見つけておくことは大切だと。

いま考えても、形張った回答をしたと思う。

こんな回答をした自分を恥ずかしく思ってしまい、今回は失敗したなと感じる。彼らも私の方が理想を言ってるじゃないの?と懐疑的な気持ちになったかも知れない。理想やルールが自分の気持ちに反したとき、人の心は複雑になる。まさに今の私がそうなのかもと感じる。

でも、こんな質問をしてくれた彼らに感謝したい。もしこの質問がなかったら、私は作業ベースで出張を終えて一定の満足感に浸っていたと思う。何よりも講義は話す側も聞く側も成長できる、重要な機会なんだと、忘れかけていたことを思い出すことができたから。

忘れるということ

過去の自分を振り返って、過ちを謝罪したいと思ったことはないでしょうか。私は今になって気づいたりすることがしばしばあります。過ちと表現すると大そうな気もしますが、事の大なり小なり、謝りたいなと思う気持ちは、日常生活の中ではしばしばあるのではないでしょうか。

謝罪の気持ちを伝えたら、相手が事を忘れていることもあります。忘れてるふりをしているだけかも知れませんが、人間にはUSBメモリーのように物理的に破壊されなくとも、正常な状態で忘れることができるという、素晴らしい機能が備わっていることに気づかされます。

そう思うと、過去にとらわれないということは大切なときがあるということなのでしょう。

忘れることもときには大切、他人には簡単に言えても、自身のことになるとなかなかできないことかも知れません。

それだけ人間の心とはコントロールが難しい、まるで猛獣のようなものなのでしょう。